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内的および外的な意味

『西遊記』は、『聖書』や『コーラン』、ヒンドゥー教の『マハーバーラタ』、シュメール人の『ギルガメッシュ』、ホメロスの『オデュセイアー』、『死者の書』など古代エジプトのパピルス文書などと同様に秘教的な著作である。これらの秘教的な著作にはすべて外的な意味と内的な意味がある。こうした著作の外的な意味では、作品の登場人物の冒険談を示しているのに対し、その内的な意味は、著者の精神的な道のり、またどのようにして世俗的な低次の自己を抑制して精神的修業を積み、人が正道を自覚して神聖な「プレゼンス」(現在に存在する状態)を悟るかを示しているのである。

聖書を含めた高次の秘教的概念は、時代と人類の潮流のなかで知識が失われてしまわないように暗号化されている。 これらの概念は、象徴、記号、慣用句、類推、隠喩、寓話により暗号化され、世俗から秘教的知識を守っているのだ。
-- アレキサンダー・ホ-ン

聖書を読むときには、その隠された意味を読み取りなさい。過去に書かれたものはすべて私たちへの
教育として書かれているのだから。
-- フィロカリア、禁欲者マーク

あらゆる秘教的な伝統の内的な意味は、初心者を「神聖なるプレゼンス」を達成するために指示することである。「神聖なるプレゼンス」というのは「低次の自己」の複数性の状態と対照する、統一された状態にある「「高次の自己」が目覚めているということである。「神聖なるプレゼンス」には歴史を通して多くの名前を与えられている。たとえばそれは「主」、「アラー」、「エホバ」,「道」であり、スーフィーの世界では「愛される者」と呼ばれており、さらにエジプトのパピルス文献における太陽神「ラー」、仏教の「涅槃」、阿弥陀仏の「浄土」、ユダヤ教とキリスト教の伝統における「エデンの園」や「安息日」、東洋の「第三の眼」、ヒンドゥー教の「バラモン」、禅の「悟り」、そして現代社会における「真の自己」という概念などがある。最後に示した「真の自己」という概念は、世俗的で機械的な生活における「複数の<私>」の対照となる概念となっている。

「アラー」という名は神聖なるプレゼンスを意味する。
-- イブン・アラビー

見よ、主はわが肉体の器の中におられる。
-- カビア

神聖なる「プレゼンス」の状態に達する道は、周囲の状況や環境を意識する一種のアートである。また、神聖なる「プレゼンス」の状態を得ようとする努力は、さまざまな教えにおいて、よく旅路や道のりにたとえて示されている。

死のダンス、15世紀(スイス、 ベルンのミュンスター)



神聖なるプレゼンスをあなたの行先にしなさい。
-- アル・ガザーリ

心霊の浄化を探し求める者は、ほとんどその目標とする経路を探しあてることができない。しかも彼の敵は、いつも待ち伏せしており、彼の経路を断ち切らんと準備している。
-- ロンダのイブン・アバード




上の画像で「低次の自己」は「西遊記」で何度も起こるように、「現在に存在する努力」を殺そうとする。僧の片手には6つの指があり、別の手は4つの指がある。指は「現在に存在する」の道具を象徴する。

四生と六道は尽く評論せらる。
-- 西游記

しかし、僧は「低次の自己」が彼を「現在に存在する努力」から気をそらすしようとするということによって妨害されていません。下の左の画像で「低次の自己」は 「現在に存在する努力」を邪魔した。対照的に、左下の画像に「低次の自己」は「現在に存在する努力」を邪魔することに成功した。

死神という十三番目のタロットカード

頭の上に「カー」があるファラオ カイロのエジプト博物館,

わが岩なる主は恵むべきかな。
主は、いくさすることをわが手に教え、
戦うことをわが指に教えられる。
-- 聖書、 詩篇、144章1話

王は、はしごの主、神の指に天国に躍り出た。
-- エジプトのピラミッドテキスト

五指は、単一の仕事を実行する。
-- ルーミ

私たちを執事の位置から解雇されている
神の手を見せてください。
-- シェイクスピア、リチャード二世

私は自分の手をあなたの戒めに持ち上げる。
--聖書、 詩篇119章48話




もし、私は先史時代のエジプトはキリストの誕生の何千年前にキリスト教だったを言うと、
多くの人々はそれは奇妙だと思うかもしれない。
-- グルジェフ


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