English 中文 日本語

 

人間の存在が持つ多数性

西遊記について最初に理解すべきことは、物語の登場人物は、それぞれ人間存在のある特定の心理学的な側面を象徴的に示しているという点である。

間違いなく、あなた自身の外に「神々」も「悪魔」もいない。
-- パドマサンバヴァ(蓮華生)

解剖学頭、フィリップ・バルビ






人間存在の心理は多くの部分から成り立っている。左に示す解剖学的な頭部の図では、頭部が多くの人間存在から構成されていることが分かる。

一万もの世界があり、それらの世界すべてが人間の内に存在しているが、人間がそれを意識することはない。
-- ダルカウィ










ルスツムは竜を切り殺す、ペルシャのミニチュア、 十六世紀.



右に示すペルシアの「竜を退治するルスタン」の画像では、「低次の自己」を表している竜の体は多くの顔でできており、人間の心理を構成する数多くの存在を象徴している。秘教的な文献においては、人間の心理内にあるこうした多くの存在を象徴的な10,000という数で示している。

阿弥陀仏に南無仏よ!もしもおいらにまことの心や
まじめな気持がなく、天の掟を破ったときには、
おいらの体を一万の部分に切り刻んでください。
-- 西游記

親愛なる、あなたの心は時としてとても気が狂ったように自分の中で「一万」の重要ではない物事について叫んで、街のすべての物を暴れて壊している牡羊のようで
あるというのは本当ですか?
-- ハフィス

ゲオルギー・グルジェフ (1866-1949) はそれが後にが「第四の道」と呼んだスピリチュアルな教えを西洋に紹介した。グルジェフは、人間が感情的な脳、知性的な脳、運動的な脳、および本能的な脳という4つの異なる脳を持っていると説明している。運動的な脳と本能的な脳は同じエネルギーと速度で機能するため、これら2つの脳は1つの脳と見なされる場合もある。感情的な脳または感情センターは感情を抱き、「美」を経験する能力がある。知性的な脳または知性センターは、思考や理性として現れる機能である。運動センターは、運動し、物事を設計することができる機能である。本能センターは心拍、肉体の成長、感覚の活動、エネルギーの配分など、人体の機能を処理している。本能センターは人の誕生の時点ですでに完全に発達を遂げている唯一のセンターであり、その他3つのセンターは教育を受けなければならない。これら4つのセンターは環境からの刺激に継続的に反応し続けるが、こうしたセンターの反応は「一万の世界」と呼ばれている。グルジェフはこうした反応を「多数の<私>」と呼んでいたが、それは通常の心理状態における私たちがこうした反応を誤って自分の「私」とみなしているからである。私たちは自分たちのアイデンティティーを、経験された思考、感情、感覚で定義する。これに対して「本当の<私>」とは、純粋な気づき、自分の内部を巡っている思考、感情、感覚、さらに自分がいる場所への気づきである。人のアイデンティティーは「観察されるもの」ではなく、「観察するもの」の中にある。人は自分が誰であるかを気遣うことなく、ただ (現在に) 存在するのである。

知性も思考も言葉もないときに、沈黙の中で、静寂の中で実相を感じなさい。
そのときのあなたは一体誰であろうか?あなたはまさしく存在である。
-- ヒンドゥー教のテキスト

神はモーセに仰せられた。「われは在りて在るものなり」
-- 出エジプト記 3:14

私はこの肉体ではなく、この知性ではなく、これらの感情でもない。私は単に観察するだけである。
私は永遠の目撃者である。
--禅師

運命の輪, オランダ、十五世紀

4つのセンターからのこうした思考、感情、反応はきわめて短時間しか続かず、絶え間なく変化し続けている。しかし、私たちは普段自分自身に気づいておらず、「自分を知らない」状態にあるため、自分が変わることのない同じ人だと考えており、自分の内部に存在している多くの異なる世界や存在を理解してはいない。これをひとたび観察し始めると、私たちは自分の中にある多くの矛盾に気づくようになるのである。

右に示す「運命の車輪」の画像では、回転する車輪の周りに動物たちが乗っているのが分かる。これらの動物は、絶えず変化している多数の<私>を象徴的に示している。ある時点で車輪の頂点にある動物がその瞬間の「私」であり、それぞれの「私」は自分が常にその位置にあるものと勘違いしている。実は、多数の<私>はおよそ3秒ごと(呼吸一回に相当する時間)に次の「私」に変化してゆくのである。


毎日私たちは数え切れないほど呼吸し、それと等しい数の空想にふけっている。
--太乙金華宗旨

秘教的な伝統においては、「多数の<私>」と「低次の自己」を象徴するために通常動物が使われている。

天の精神が人を治めるとき、人の獣性はその正しい場所におさまる。
-- 易経

魂が自然に反する状態にあり、感覚的な快楽の雑草や棘により勝手気ままにするかぎり、
魂は奇怪な獣の棲み処のままである。
-- 偉大なる禁欲者テオドロス]

「多数の<私>」は動物として描かれることが多いが、それは動物が人間存在の動物的な本性を象徴的に示しているからである。この「動物的な本性」は人間存在の中にある「神聖な本性」とは全く対になっている。しかし多数の<私>はすべて同じ質やレベルだというわけではない。私たちには、否定的な思考、食物や性行為への本能的な渇望、またはより中立的な衝動があり、さらに、幸運な場合には「現在に存在する」ことを想起させる思考も私たちの中にある。

多くのことを観察した結果として、私は天使の思考、人間の思考、そして悪魔からくる思考の間に
ある違いを見分けることを学んだ。
-- フィロカリア、孤独者エヴァグリオス

あなたは悪魔、野獣、天使、そして人間である。この内のどれを養うかに応じて、あなたはまさにそのどれかとなる。
-- カシャーニ

チベットの運命の輪

仏教は「多数の<私>」を6つの異なるカテゴリーに分けている。それは「六道」と呼ばれており、すなわち地獄道 (例、否定的感情や他人を裁く心)、餓鬼道 (例、悪習慣と欲望)、畜生道 (例、運動および本能センターからの多数の<私>)、人間道 (例、知性および感情センターからの多数の<私>)、阿修羅道 (例、自己に対するワークに関連しているが、現在に存在する努力を呼び起こさない多数の<私>)、および天道 (例、現在に存在することを想起させる多数の<私>) がある。天道の存在者たちは不死ではなく、後で他の六道のどれかに生まれ変わることになる。(現在に存在することを想起させるが、「プレゼンス」(現在に存在する状態)そのものではない多数の<私>) こうした概念の外在的な意味とは、人が死ぬと輪廻により六道のどれかに生まれ変わるというものである。しかしその内的な意味は、六道は人の中にあるさまざまな多数の<私>を表しているということである。多数の<私>は生じてからしばらく経つと死に絶え、別の多数の<私>が果てしなくそれに続いてゆくのである。

生涯とは生と死の瞬間の間にある時間ではない。
生涯とは二つのちょっとした呼吸の間
にある一瞬のことである。
-- 禅の格言

厳密に言えば、生物の生命が持続する時間は極めて短く、一つの思考が持続する間しか持続することはない。ちょうど回転する馬車の車輪で、回転が車輪の一点だけで生じ、静止も一点だけで生じるように、まさに同じ仕方で、生物の生命は一つの思考が生じる間だけ持続するのである。
-- 仏典、Visuddha magga VIII, verse 39

「その意味とは?」と唐王は尋ねた。判官が答えて言うには「善を行なえる者は昇化して仙道へ,忠を尽くせる者は超生して貴道へ,孝を行なえる者は再生して福道へ,公平を貫きし者は還生して人道へ,徳を積みたる者は転生して富道へ,悪毒をなせる者は沈淪して鬼道へ」
-- 西游記

これらの6つ心の状態の死と再生の無限なサイクルはサンスクリットで、サムサラと呼ばれる。この概念は、ヒンドゥー教で発生する。

サムサラというのは自分の思考より以上のものではない。
--ウパニシャッド

多数の<私>によるこの無限の輪廻 (サムサーラ) から逃れる術として、大乗仏教の伝統では、阿弥陀仏の「浄土」または「西方極楽浄土」に生まれ変わらなければならない。この「浄土」はプレゼンスの状態 (現在に存在する状態) を象徴的に指している。現在に存在するとき、人は多数の<私>を超越している。そして多数の<私>をあたかも何か自分の外側にあるものとして観察できるのである。

仏陀は菩提樹菩提下にマラの軍隊(一万盧『複数の私」)を無視している、 3世紀(インド、 フリーア美術館、ワシントンD.C.)



万相がただ一つの理に帰するのは、沙羅双樹の下で釈迦が涅槃に入るのと同じこと。
-- 西游記 

西遊記に出てくる仏は阿弥陀仏である。すなわち、西方極楽浄土に達して仏から経典を受け取るということは、「神聖なるプレゼンス」の状態に達することを象徴しているのである。

東土大国の坊さまが西方浄土に経を取りに行く旅。
 -- 西游記 




copyright © 2009 - 2012 www.innerjourneytothewest.com, all rights reserved